一山一家に込める想い

炭鉱の町に伝わる、一山一家という言葉がある。鉱山、その山に関わる全ての人達が一つの家族である、という考えかた。
 
福島県いわき市にその言葉を組織理念とし、日々診療を続ける医療機関がある。
 
ときわ会常磐病院。ときわ会に関わる人達、職員、患者さん、関係者が一つの家族という想いで組織運営を行なっている。
 
東京上野駅からJR常磐線快速で約2時間、湯本駅に降り立った。ハワイアンズがある温泉街にときわ会常磐病院はあった。
 
その常磐病院が医師を募集している。
 

 

 
○アロハシャツの院長先生
 
院長は新村浩明医師。
 
毎日、アロハシャツを着てフェイスブックに写真をアップする。
正装がアロハシャツ。
訪問診療はチョンマゲに侍の仮装姿、動画サイトでキレキレのダンスを踊り、仮装姿のコントで病院紹介を行う。
 
そんな型破りの院長先生に話を聞いた。
 

 
富山県で生まれ、父親が警察官だったことで富山県内を引っ越しながら過ごした。
中高生の時はソフトテニス部に所属した。
しかし部活には特に力を入れず、ラケットをギターに仕立て、教室で歌を歌うという目立ちたがり屋だった。
 
吉本新喜劇を見て育ち、明石家さんまを尊敬していた。
人を楽しませる人になりたかったと言う。
医師を目指した理由は思い出せないが、高校三年生で勉強に真剣に取り組み、富山医科薬科大学に合格した。
 
時代はバブル前夜で、なんとなくぼんやりと東京に憧れていた。
曰く、「なんかソワソワして、東京へ行きたくなってしまいました」
大学時代は東京の友人宅を訪れることが多く、東京でアルバイトをしたりして滞在することが多かった。
その流れで卒業後は東京女子医大の泌尿器科へ入局した。
ついに念願の東京生活が始まる。
そして学生時代の東京への憧れが、今のいわき市での仕事に繋がって行く。
 
東京女子医大病院の横にフジテレビがあると言うだけで、なぜかワクワクしていたと言う。
しかし、仕事には熱心に取り組んだ。腎移植を含めあらゆる手術を勉強した。
東京ライフに憧れせっかく来たのだが、夜は病院に泊まり込むことが多かった。
 
医局の人事で、新潟県、埼玉県などの関連病院に勤め、臨床に真摯に取り組んだ。
そして、2005年に福島県いわき市のときわ泌尿器科へ赴任となった。
38歳、医師12年目の年だった。
 
現在は公益財団法人ときわ会で、医療と介護を包括的に行っている。
赴任当時は、19床の有床クリニックだった。
大学病院の関連医療機関の中では小さく、当時は医局員には人気がなかった。
しかし、そんなことは気にしていなかった。
子供の頃からどこでも楽しめる性格だった。
それにクリニックだが、外科的治療は数多く、多くの手術を手がけていたからだ。
 
そこで、現ときわ会会長の常盤医師と出会うことになる。
 
この出会いが今に繋がっている。
 

 
常盤会長はとにかく、面倒みがよくスケールが大きい人だと言う。
患者さんで経済的に困っている人には、職員食堂で食事をさせたり、おこずかいを渡したりしていた。
職員が困っていることには、直ちに介入し問題を解決する。
今では週1回、職員を20人程度集め、食事会を企画するなど昔気質の親分肌である。
 
また、何でも一番でないと組織が縮小すると、最新医療器具には迷わず先行投資を行う。
内視鏡手術支援ロボットダビンチも福島県で初めて導入している。
個人病院では珍しくPET―CTも導入している。
 

 
常盤会長は、いつも「いつか日本一の病院をつくりたい」と熱く夢を語っていた。
新村院長は当時、クリニックが目指せる目標ではないと感じていたが、常盤会長が発言すると不思議と夢ではないような気持ちになっていた。
 
気付けばそんな常盤会長の人柄や、夢に、段々と共感するようになっていた。
 
2年間の派遣の約束だったが、このままの留任を希望した。
当然教授は怒り、医局との関係は悪くなった。
 
仕事の方は順調だった。
当時、34万人のいわき市で泌尿器科の手術を行っている医療機関は3箇所だけだった。
 
本当に日本一になるつもりで診療にあたった。
有床クリニックだったが、腎移植も行い、気がつけば大学の関連病院の中でもトップの手術件数を誇るようになった。
それとともに医局との関係も不思議と回復していった。
 

 
○震災を乗り越え
 
そんな時、新村院長とときわ会に大きな転機が訪れる。
 
2010年、市立病院が経営難で経営の移譲を発表し、ときわ会が経営を引き継ぐことになった。
240床を引き継ぐには、スタッフが足らなかった。
しかし、透析患者を多数かかえ、患者さんと一生歩むためにも小さなクリニックのままではいつか消滅する可能性がある。
常盤会長の大きな決断があった。
 
ギリギリの職員数で新たに誕生したのが、ときわ会常磐病院だった。
 
市立病院を譲渡し、慌ただしく働いていた1年後にさらに大きな試練が待ち受けていた。
 
2011年3月11日、東日本大震災が発生したのだ。
新村院長は、この時のことを本当に大変だったと語った。
 
福島第一原発の事故で、住民はパニックに陥った。
市街に避難する車の渋滞の光景が忘れられない。
マスコミが放射能汚染を恐れ、取材にこなかったために、いわき市の被害状況は発表されなかった。
 
まず水がないことで、透析が回せなくなった。
そしてガソリンがないことで水を運んでこられない。
いわき市では透析ができなくなった。
行政に掛け合ったが、うまく解決できず、結局は独自の人のつながりを頼りに透析患者さんの県外への移送をすることになった。
行政との見えない壁を初めて痛感した。
 
結局、総勢584名の透析患者さんと75名のスタッフが県外に移動することになった。
その調整には、言葉にはできない相当な苦労があったと思われる。
 
新村院長は当時東京で移送患者さんの担当となり、東京で働いた。
大変な経験だったが、震災で人手不足となったことで、逆に県外から医師の支援が始まるようになった。
 
東日本大震災の経験から、恩返しの気持ちで2016年の熊本地震の透析サポートにも1ヶ月間取り組んだ。
 
○そして院長になる
 
その後、常盤会長から新院長を打診された。
常磐病院のために思い切り働きたい、色々なアイディアを実行に移してみたい、そんな気持ちで快諾し2015年に新院長になった。
2005年にいわきに赴任し、気がつけば10年が経っていた。
 
院長になりまず取り組んだのが、医師、看護婦の確保だ。
働き甲斐のある職場を作ることを第一にした。
医師には個々にバス、トイレ付きの個室を用意し、食事は3食ビュッフェ式の食事を提供している。
職員のために院内に24時間使用できる掛け湯の温泉施設も作った。
 
常磐病院で働くことに誇りを感じて欲しかった。
 
子育て支援は、事業内保育所、送迎付きの学童施設がある。
子供の成長で仕事を諦めることがないようにする目的だと言う。
 
病院正面玄関に飾られた、一山一家の文字は新村院長が提案した、組織理念だ。
常盤会長直筆で、一山一家、地域の皆様と共に生きると書いている。
 

 
尊敬する常盤会長の想い、姿勢をそのまま表していると考えている。
この想いとともに歩みたいと、新村院長は最前線で医療に取り組んでいる。
院長になっても、入院患者数、外来患者数は院内で一番多く、回数は少ないが当直も行っている。
 
そして病院PRを先頭に立ち行っている。
仮装姿で外に出て動画作成も行う。
アイデアを形にする。
子供時代の新喜劇好き、お笑い好きの一面が出ている。
 

 
そのことで色々言われることもあると言う。
しかし、単なる目立ちたがりだけではないはずだ。
トップがその姿勢を見せることでリーダーシップを示し、信念を持ち活動している。
 
PR動画からイケイケの院長を想像していたが、そんな行動力とは裏腹に話す時は伏し目がちで話す、シャイな性格だった。
人のマネジメントに悩んでますと、苦労話も正直にしてくれた。
 
医療は最先端の医療を提供する努力をし、地域のニーズである救急医療にも応えるようにしたいと考えている。
そうしたこともあり、未来を見据えて消化器内科医や麻酔科を募集している。
 
患者満足度だけでなく従業員満足度も高める努力を惜しまず、日々の臨床には全力で当たる。
院長自ら先頭を走る姿勢を見せることで、スタッフを引っ張るリーダーだと感じた。
 

 
「歩みを止めない。一番ではなく、そこそこでいいという気持ちでは小さな法人は縮小して行くしかない。そのためにはできることは全て行う」
 
これからも毎朝、病院前でアロハを着た新村院長は写真をフェイスブックにあげ、仕事を始めるだろう。
院長になってからこの習慣は、3年間一度も休んでいない。
ともに常磐病院を支え、楽しく働いてくれる医師を待っている。
 

求人案内
組織名公益財団法人ときわ会 常盤病院
サイトhttp://www.tokiwa.or.jp/hospital/jyoban/summary.html
勤務地福島県いわき市
職種内科医 麻酔科医
雇用形態常勤・非常勤  (相談してください)
給与当会規定によリます
勤務時間9:00〜17:00
休日休暇当会規定による (相談してください)
福利厚生当会規定によリます
通勤手当・食事手当・子供手当・超過勤務手当・夜勤手当・職種により各種手当有  各種社会保険完備