想うことからはじまる

 
HITO病院(ヒトビョウイン)、不思議な名前の病院が四国にある。
人の病院、その不思議な名前に込められた想いを聴いてみたいと思い、小雨まじりの午後、HITO病院を訪れた。
 
愛媛県四国中央市に、社会医療法人石川記念会HITO病院はある。
香川県、徳島県、高知県、四国の全ての県に接する、人口8万5千人弱の四国の真ん中に存在する街。
 

王手製紙会社の工場がいくつかあり、巨大な煙突が並んでいる。
その街に、黒を基調とした、病院には見えない、存在感のある建物が立っている。
 
理事長兼病院長の石川賀代医師に話をうかがった。
華奢に見える立ち姿に反して、意志の強い目をしている。芯のある人、という印象を受ける。
 

HITO病院の前身は石川病院。石川理事長の父親が創設した。
父親は愛媛県出身で、長崎大学医学部を卒業し、愛媛県の無医村地区で診療を行っていた。
医局には属さず、型破りな医師だったそうだ。
その後、無医村の山から下りるように現れ、出身地である現在の四国中央市で、1976年に石川外科医院を開院する。
 
1979年には石川病院となり、地元の救急医療を守ると、一人奮闘していた。
当時、自宅は病院の中にあった。石川理事長は3歳年下の妹と、病院のなかを通って小学校に通っていた。廊下に患者さんが横たわったストレッチャーが、並んでいる風景が日常だった。
 
父は忙しく、家で会うことは滅多に無かった。本当に、一日中診療に追われていた。父親と会うことはあっても、病院内で診療している姿を見かけるだけだった。
当時、母親も病院の経理を担当しており、母方の祖母が石川理事長と妹の面倒を見ていた。よく妹と二人で、本を読んだりして過ごした。
忙しい両親だったが、祖母の愛情が深く、特にさびしい思いをしたことはなかった。
祖母はホスピタリティーにあふれ、常に先を想像して行動する人だった。幼い姉妹が喜ぶことを、常に考えてくれていた。その気持ちに育てられた。
 

中学からは親元を離れ、香川県の中高一貫の進学校に進んだ。クラスに女子が二人だけの学校で、勉学に忙しかった。その当時、自分では大人しい性格だったと振り返る。
 
将来は、なんとなく薬剤師や教師になりたいとぼんやりと考えていた。
父から進路については、ほとんど何も言われなかった。しかし、文系に進もうとした時には、電話で理系にするように言われた。その時は、特に反抗もせず理系に進み、東京女子医科大学に進学する。
 
初めての東京生活は、刺激があり楽しかった。同級生は女性ばかりで、いい意味で個性的な人が多かった。その個性の中で、自分の意見を言うことの大切さを学んだ。
卒業後は、東京女子医科大学の消化器内科の医局に入局した。6年間のコースで臨床にも研究にも取り組んだ。
 
当時は、地元に帰る気は全くなく、将来について父とも話すこともなかった。
「本音は、帰りたくなかったと思う」と話してくれた。
研究していたことがきっかけで、大阪大学に国内留学した。約2年間学んだ。
その後女子医大に戻るが、その時の尊敬する上司が医局を退職することになり、自分も医局を辞めることを選んだ。
「なんとなく疲れていたんだと思います」と、その時のことを振り返った。
 
2002年に石川病院に戻り、初めて父の近くで過ごすことになる。
その頃の石川病院は、救急の最後の砦として、本当に野戦病院のようだった。
父をライバルのように考えていたが、一方で父に認めてもらいたい気持ちも強かった。一心不乱に働いた。その頃から、スタッフは大変よく働いてくれ、石川理事長は現場スタッフの想いを父に伝える役割でもあった。
 
2010年に新病院開設を見据え、理事長/院長を交代することになった。気がつけば、地元に戻り8年が過ぎていた。
新病院開設を前に、どんな病院にしたいのかを、とことん考えた。「それまでの石川病院は、正直なところ、自分が働きたいと思える病院ではなかった」と言う。
考えに考え最終的には、患者さんにもスタッフにも選ばれる病院を目指そうという結論に至った。
 
2013年、石川病院からHITO病院へ、父から娘へ地域医療のバトンが渡された瞬間だった。娘から見て、ワンマンなトップに映っていた父だった。しかし新病院開設と理事長交代にあたって、娘に一言も口は出さなかった。
 
そして、組織のトップに立った時、父のことが初めて理解できた気がした。
組織のトップに立つという重圧は、今まで感じたことがない、なったものにしか解らない重みだった。副院長だったが、院長と副院長ではこれほど責任が違うのかと思い知らされた。
この重圧の中で、父は仕事をしていたのか。
子供の時から、遠い存在だった父親と自分自身が、立場を通じて重なり合った。
 

人の人生に寄り添い、大切な人生の一時期を支えるお手伝いがしたい。
真面目な顔で話す姿は、心のそこからそう想っているように見えた。
 
そしてその想いが、最終的に「いきるを支える」というHITO病院のコンセプトにつながっていく。
 
自分自身が、他者から元気をいただくことがよくあると言う。それなら自分自身が、皆に元気を与える存在になりたい。
とにかくなんでもやってみる。いいと思うことは、すぐに試す。
 
スタッフが働きやすいように調整することが、自分の仕事だと思っている。現場と乖離しないように、スタッフの顔を常に見て、声をかけるように心がけている。祖母からもらった、ホスピタリティーの想いだろうか。
 
そんなたくさんの想いを実現するカタチが、HITO病院なのかもしれない。
 

事務部長の鎌田潔さんが、院内を案内してくれた。
 
鎌田さんは、飲食業界やホテル業界出身で、医療は初めての仕事だと言う。しかし、ホスピタリティーということでは同じだと考えています、と笑った。
石川理事長に口説かれて、東京から四国中央市に移ってきた。その穏やかな語り口とスタッフに接する姿は、本当にホスピタリティーにあふれていた。
 

1階は黒を基調とした壁と、優しい白い床との調和が心地よい。院長が細部までこだわった、洗練された様々なデザインや工夫があった。
驚いたことに、病院内のソファーは、全て院長が選んだという。そこまで、意識して自分の想いを伝えようとしている。
 

緩和ケア病棟は、木を基調とした作りで、本当に心が穏やかになる。一角のライブラリーは、選書家が厳選した人生を振り返る本たちに囲まれていた。
スタッフが、かわるがわる挨拶をしてくれ、優しい笑顔で出迎えてくれた。
 
廊下やエレベーターで、どのスタッフも挨拶をしてくれる。そんな風景にHITO
病院の組織文化の一端を感じた。
特に鎌田さん自ら、スタッフに挨拶する姿が印象に残った。
石川理事長に引き寄せられて、様々な職種の人たちがHITO病院に集まってきている。
 

最上階にある、レストランSORAは四国中央市が一望でき、さまざなイベントに活用されている。特に花火大会を皆で鑑賞すると聞いた時には、その様子がはっきりとイメージできた。
 
夕食はビュッフェ形式で、全職員に無料で提供している。単身赴任者や独身の一人暮らしのスタッフには、非常に評判がいい。スタッフのモチベーションを上げるためというよりは、本当にスタッフのことを想っているのだろう。
 

地域のことを考えて、地域とともに歩む様々な取り組みも行っている。
その一つが絆プロジェクトで、地域の市民、医療機関、行政、企業との絆を深めるための取り組みである。小規模な出前講座を頻回に開いたり、かかりつけ医との連携強化として二人主治医制と絆カードの作成などを行っている。
また市民の方にお願いし、「HITOフレンズ」として登録して頂き、病院内外の様々な活動に参画していただいている。
 
石川理事長は、この地域で医療を継続させていくことが、父からバトンを渡された自分の使命だと考えていると言った。
この街で、HITO病院がどんな役割を果たしていくことができるのか、なんのためにやるのか、日々そのことに向き合いながら生きていくことを決めた。
 
想いをカタチにすることは、そんなに難しいことではないのではないか?
石川理事長と話しているとそう感じる。
 

最後に、どんな人と働きたいですかと聞いてみた。
シンプルに、「前向きな人です」と答えてくれた。
 
「どうしていきたいのか、なぜそれをするのかを考えながら前に一歩進む人」
 
それは、石川理事長自身のことではないですか。口には出さず、HITO病院を後にした。
いつの間にか雨が上がり、雲のすきまから太陽の光が顔をのぞかせていた。
 

求人案内
組織名社会医療法人石川記念会 HITO病院
サイトhttp://hitomedical.co-site.jp
勤務地愛媛県四国中央市
職種医師
雇用形態常勤・非常勤
給与経験年数により変動 昇給:年1回 賞与:年2回
勤務時間8:30〜17:30  1ヶ月平均週40時間労働
休日休暇年間休日108日
福利厚生附属保育施設 夕食無料バイキング有(レストランにて)
各種サークル活動あり(フットサル、野球、駅伝、軽音など)