チーム新都市で信頼される医療を
10年前によく読んでいたブログがあった。
そこには仕事、キャリア、友人、同僚などについての正直な気持ちが書かれていた。脳外科医として少しでも成長したいという想いと、人への温かい視線が垣間見えた。日々の仕事、キャリアに悩みながら試行錯誤する一脳外科医の真摯な姿があった。
それは「 Dr.Mのgo for it !! -発展途上の外科医ブログ-」というある脳外科医の日常を綴ったブログだった。
今でも良く覚えているのは、発展途上の自分自身がそのブログに励まされていたからかもしれない。
ブログを書いていた脳外科医が、今回訪問する横浜新都市脳神経外科病院(以下、新都市)院長、森本将史医師である。
雨の降る少し湿度の高い金曜日の午後、病院を訪れた。
正面玄関から中に入ると、外来の待合は夕方という時間帯の割に診察を待つ人々がいた。受付では事務職員の方々が絶え間なく患者さんに対応していた。その人達を見ながら、ふと何時に会えるのかと思い、待合の時計を見上げた。
待っている間、入職2年目の医局秘書の板倉さんが院内を案内してくれた。
歩きながら、森本院長がどんな人か少し聞いてみた。
「スポーティな人です」
「どんなに忙しくても、イライラせず同じ態度で接してくれます」
「いつも同じことを繰り返し言っていて、どんな時もぶれないです」
その言葉に10年前のブログのことを少し思い出していた。
森本院長を待つ間、板倉さんが申し訳なさそうに色々気を使ってくれた。そのさりげない態度に病院の雰囲気を感じとることができた。
午後7時30分頃、朝からの外来を終えた森本院長が現れた。
相当疲れているのではないかと思ったが、院長室で迎えてくれたその姿はパワフルそのものだった。
濃紺のタイトなユニフォームからのぞく日焼けした肌、筋肉質な体つきで身長よりかなり大きく見える。話終える時に顔をくしゃくしゃにして子供のように笑う姿が印象的だ。
趣味はトライアスロン。海外のアイアンマンレース(スイム:3.8km、バイク:180km、ラン:42.195km)を数回完走し、サハラレース(サハラ砂漠を13kgの荷物を背負い、6日間で250kmを走るレース)を2017年に完走している。
森本院長は大阪生まれで、高校まで大阪で過ごした。実家は祖父の代から和装小物の卸問屋を営んでおり、父は2代目として働いていた。父からは家業は継がなくていいと言われていた。
大阪星光学院で中学高校と生徒会に属し、中高と生徒会長を務めた。野球部にも入部し野球に熱中した。
将来はなんとなく京都大学の文系学部へ行き、商社マンとして世界を飛び回ることを夢見ていた。しかし人が好きで、直接人の役に立ちたいと考え直し医学部を目指すことにした。
その時の成績ではとても京都大学医学部へ入学することができず浪人する。京都が好きで京都の予備校に通い、京都大学の自由な校風に憧れどうしても京都大学に入学したかった。
周囲の人たちには、とても合格できないと色々言われた。しかし努力に努力を重ね翌年に合格する。
この時の経験が、自分に強い自信を与えてくれたという。それは京都大学医学部へ入学したということではなく、他人から無理だと言われたことを自分の力で打ち破った体験だった。それ以降、自分で自分に限界を決めないようになった。
京都大学ではラグビー部と競技スキー部に所属し、1年を通じてクラブ活動三昧の大学生活を送った。大学時代、なぜか愛読雑誌はビジネス雑誌のプレジデントだった。人間の成長と組織論が好きだったのかもしれない。
卒業後は、憧れの教授がいた脳外科の教室へ入局した。同期は14人。麻酔科への出向後に、同期2人だけが脳外科に戻り指導医の宮本享医師(現・京都大学脳外科教授)のもと医師としての基本を学んだ。
「ベッドサイドで患者さんの変化を常に見るように」
「君たちに期待するのはハートとフットワークだけだ」
「信用できる人にしか患者さんをあてない」
知識、技術の前に医師としての心構えを徹底的に叩き込まれた。それが今の自分の原点になっていますと話してくれた。
その後は国立循環器病研究センター(以下、国循)、倉敷中央病院、京都大学大学院、ベルギーLeuven大学留学と順調に脳外科医としての王道を歩むこととなる。
順風満帆だった。
宮本先生の誘いで留学を切り上げ、国循へ2回目の出向となった。ここで大きく人生が動く事になった。国循では脳外科医9人中9番目の立ち位置で、大学院、留学としばらく臨床から離れていたこともあり、手術を執刀するチャンスがなかなか回ってこなかった。挫折感を感じながらの日々だったという。
40歳までに脳外科医としてある程度独り立ちしていたい。直達手術と血管内治療の標準手技が安全にできる脳外科医になりたい。その思いが日に日に強くなっていった。そしてついに自ら希望し、チャンスを求め福井赤十字病院へ転勤する。更に、その約1年半後に京都大学の医局を出ることになった。
京都大学に憧れて入学し、素晴らしい指導医のもとで脳外科医としての医師人生を歩み始めた。その場所を離れることは非常に辛く、散々悩んだ。多くの人から引き留められ、様々なアドバイスも受けた。
しかし、最後は「自分の人生は自分で決める」と組織ではなく自分自身に人生をかけた。京都大学という大きな組織を離れる不安はあったが、森本将史という一人の脳外科医として勝負してみたいという気持ちを抑えられなかった。
関西を離れ、縁あって誘われた東京の北原脳神経外科病院(現・北原国際病院)へ就職することになった。ここで直達手術と血管内治療に明け暮れ、ある程度自信を持って「脳外科医です」と言えるようになった。また北原院長の病院運営マネジメントも身近で学ぶことができた。
北原脳神経外科病院で3年半忙しく働き、現在の横浜新都市脳神経外科病院(以下、新都市)に移ることになり、その1年後に病院長に就任した。43歳だった。
その当時の新都市は赤字が続き、閉鎖された病棟もあり脳外科への手術紹介はなかった。ゼロからのスタートになった。まずは救急部門から取り掛かった。救急車のお断りを減らし、救急隊から信頼される病院になるようにした。自ら誰よりも働くと決め、当直も一番多く入った。
スタッフには暑苦しいのが来たとやっかまれ、さまざまな部署とのあつれきも相当あった。しかし、口を出すだけではなく一番働いていたため徐々に認められていった。病院の業績が上がり知名度が高くなるにつれ、スタッフの働くモチベーションも上がっていった。3年かかりましたと話してくれた。
現在は脳動脈瘤と脳梗塞治療実績数は横浜で一番多く、地区の医療機関からの紹介も多い。赴任当時とは全く異なる病院になった。
森本院長のメディアなどへの露出も非常に多い。
「チーム新都市」
森本院長がいつも使う言葉で、病院のスタッフにも浸透している。医師だけが頑張るのではなく、すべての職員が新都市を支えている、皆のこれまでの頑張りで今があるのだということを伝えたいという意図がある。
病院全体の運営については、3Cを組織目標に挙げている。Cooperation(協力)、Challenge(挑戦)、Change(変化)でまずは皆で協力する。そしてさまざまなものに挑戦し、それを変化につなげていく。現状維持は考えていない。常に変化をしていかないと生き残れないと思っている。
新入職員には全員に、必ず病院行事には参加することを義務化している。それは野球部の1年生の球磨きと同じと考えている。地味な事を嫌がって大切にしない組織文化では、いいものは生み出せないし築いていけない。
毎年、富士山に約100人で弾丸登山に行くそうだが森本院長も率先して参加している。また約5000人が参加するIMS(イムス)グループの大運動会にも必ず参加し、ガチンコの真剣勝負をしているという。チーム新都市のキャプテンを自負している。
「新都市で働く人たちが次の職場に移っても、
そこで役に立つ人になってもらいたい」
新都市で働くことで少しでも成長して欲しいと思う。全職員に対する愛情がうかがえた。
そんなトップだからこそ、チームとしてまとまることができるのだろう。
脳外科医の育成に関しては、医師は患者さんとその家族、職員などすべての人達に後ろ姿を見られているという意識を持つようにと指導している。
自分が研修医時代から学び実践してきた「患者さん、その家族、すべてのスタッフに信頼され、必要とされる医師になる」という思いだ。「人は人から必要とされると嬉しい、人に必要とされる人間になろう」といつも言い、実践している。
医療知識、技術も当然必要だが、まずは人間性を磨きなさいと事あるごとに伝えている。そして、それができなければ手術をさせない方針にしているという。それで去っていっても構わないと考えている。
知識だけ、技術だけではいいものはできないし、いいものは残せないと信じているからだ。
新都市に来る医師は、医局に属していない医師が中心だ。つまり無所属の医師だからこそ患者さん、家族、スタッフに信頼されることがその医師の価値になると考えている。
脳外科への紹介患者さんを他の医師にも診察してもらうが、その紹介状の返事には全て目を通し信頼を失うことがないように内容を確認している。内容が良くなければ直ぐに書き直しさせている。
今までの積み重ねが信頼につながっており、その信頼を大切に次につなぐ気持ちを持ってもらいたいと考えている。
新都市は脳外科疾患の症例数が多くチャンスがある。更に森本院長から医療技術と知識、社会人としての心構えも学べる。厳しい環境だと思うが、脳外科医として一人前になれる場ができている。
気概のある脳外科医を常に募集している。
インタビューの後、行きつけのイタリアンレストランに招待していただいた。私服はジーパンに白いTシャツで一見院長には見えない。豪快に話し、豪快に笑う。そしてよく食べる。
話は自然とキャリアやリーダーシップ、マネジメントの話になった。
「気づく力が大切」
「当たり前のことを、人よりよくできるようにする」
「40歳になったら誰と働いたじゃなく、何ができるか」
「誰を知っているかより、誰に知られているか」
「一人で生き抜いていく力こそが大切だ」
「人はいろいろなことを言う。しかし人生は短い、決めるのは自分だ」
「人生は必ずつまずく。だから何回転んでもいい、起き上がればいい」
人生経験と実績に裏付けられた数々の言葉を聞き、さながら森本人生塾で学んでいるような気分になっていた。引き込まれるようなスケールの大きさとその対極にあるきめ細やかな気づかい、そして人へのあくなき興味と優しさがあった。
本当に人が好きなんだなと思った。
10年前にいつも励まされていたブログ。その作者を目の前にしているという人の縁の不思議さを思った。ブログの表題「go for it」にはやってみよう、頑張れの意味がある。
「まず自ら行動して自分が幸せになる、そして周りの人たちも幸せにしたい」という森本院長の言葉につながっていた。
ちなみに、話は深夜の二次会まで続いた。
迷いをすべて吹き飛ばしてくれるような言葉に触れ、自分の中の何かが熱くなるのを感じながら、息を切らせて最終電車に飛び乗った。
組織名 | 横浜新都市脳神経外科病院 |
サイト | https://www.yokohama-shintoshi.jp |
勤務地 | 神奈川県横浜市青葉区荏田町 |
職種 | 医師 |
雇用形態 | 常勤 |
給与 | 職位、経験年数に応じて設定します |
保険 | 健康保険 厚生年金保険 雇用保険 労災保険 |
応募 | 随時 |
福利厚生 | 財形貯蓄 生命・損害保険(団体扱い) 健保組合契約施設、治療費減免制度 |